【Q】七種泰史
味岡さんの回答の中に、「タイプフェイスにはそのタイポグラフィを決定する力がある。つまり、良いタイポグラフィの前提として良いタイプフェイスが必要である」とあります。
良いタイプフェイス、悪いタイプフェイスとはどのような判断をされますか。

【A】神谷利男
私は現在の価値観の中では、良いも悪いもないのではないかと最近考えています。かつては、明朝なら格調と読みやすさ、ゴシックなら強さとモダンさと考え新書体はほとんど使用していませんでした。しかしここ最近、タイプフェイスは、人間でたとえるなら声、だと考えています。声楽家やアナウンサーは、それが職業だから良い声となるのでしょうが、でも一般の人は良い声の人も悪い声の人もいて、それは良いも悪いもない。つまり伝わるからです。その上で個性となって表現されているタイプフェイスもそうなんじゃないかと思っています。欧文は自信がないので認められたものしか基本的に使用しません。

【A】棚瀬伸司
質問に対する私なりの考えとしては『よくわからない』というのが本音です。例えば、可読性が高く組みやすいのが良いタイプフェイスと考えると、今まで私が制作して販売されている1バイトフォント(FONT-ROM#2,#3に収録。かなとアルファベットのみ)は、斜体がかかっていてタテ組は無理なものや、変な癖を付けて「雰囲気」だけを見せているようなものばかりで、結果的に自分の仕事を否定するような結果になってしまいます。自分の仕事の話はさておいても、使用する側が明確な目的をもって使用していれば、結果的に可読性が低くなってもそれはそれでひとつの流れなんじゃないかと考えます。David Carson、彼はタイプフェイスのデザインはしていないようですが、彼の仕事にはその傾向が強く感じられるような気がします。

【A】長谷川眞策
良い悪いの判断基準は難しい。誰もが認める「モノサシ」がありません。ただ言えることは、そのタイプフェイスに感情が込められているかどうか。一般ユーザーがタイプフェイスのイメージや感情まで判断できるわけがない…と「ゴシック体や明朝体の違いしかわからないよ!」という会話を聞くことがあります。クライアントのダメ担当が言うのはかまわないが、デザイナーが同じ考えを持ってはまずい。タイプフェイスの持つ感情をうまくデザイナーが利用するからこそユーザーに適切な伝達ができると思っています。
 そのためにもデザイナーはいつも純粋な気持ちと確かな目を持ってタイプフェイスとつきあって欲しい。例えば、「スーボ」書体を単独で眺めれば「野暮ったい」「ボディコピーじゃ読めないよ」かもしれませんが、デザイナーの適切な使い方によって「安そうだ」「親近感」「あたたかみ」をユーザーが受け止めてくれます。ユーザーを「その気にさせる」ことがデザイナーの使命であり、タイプフェイスの重要な役割です。
 良いタイプフェイスは、「1字1字に意図した感情が込められているもの」…と私は考えます。

【A】味岡伸太郎
私のタイプフェイスの良し悪しの判断とは一言で言えば「私が使うか否か」です。私がタイプフェイスの制作を始めたのは先に答えたように自分の使用の為なのです。一般論で言えば、タイプフェイスデザインはデザインするだけでなく使われて初めて意味を持ちます。例えばポスター等に例をとれば、デザインが印刷され掲示されれば一応それはデザインとして完結します(勿論そのポスターによって告知の効果の良し悪しの判断は残ります)。ところがタイプフェイスデザインでは制作して発表しても、それがデザイナーの目を止め、使われて初めて完結します。このことが他のデザイン分野との大きな違いです。
 話は少し質問の範囲を逸脱しますが、これまで日本のタイプフェイスデザインはデザインしなくてはならない文字数の多さゆえに、他の分野のデザイナー、つまり使い手の参画を簡単には許さない状況でした。そのことが新書体が広く受け入れられにくい理由の一つになっていました。作りたい書体よりも使いたい書体の視点がタイプフェイスデザインには最も必要で、案外見過ごされてきた問題ではないでしょうか。
 タイプフェイスデザインとは難しいもので、制作中は一生懸命ですので、近視眼的になりがちです。ところが発表される頃になると少し冷静になり、客観的に自作を見ることができるようになります。制作中には見えなかった欠点が見えてきます。すると自作のタイプフェイスでも使えなくなります。残念ながら、低い評価を下さなければならないタイプフェイスは、私の作品のなかにも少なからずあります。つくづくタイプフェイスデザインとは難しいものです。

【A】山田正彦
タイプフェイスを使うデザイナーとしての意見ですが、私にとっては「良い・イコール・好き」です。
 「好き」のなかには、「美しい」「バランスが良い」という造形的なものと「魅力的」「クセモノ」などといったある種の性格をイメージさせる印象的なものがあります。それらの中から目的に合わせて使い分けるのですが、現在のデジタルフォントには、私の「好き」なものが少なく、代わりがないから仕方なくという消極的な理由で選んで(?)いるのが現状です。
 いつまでも写植時代を懐かしんでいても仕方のないことですが、今よりもたくさん好きな書体があったことは事実です。だからといって「嫌い・イコール・悪い」と言うつもりはありません。

【A】奥村昭夫
良い夫、悪い夫。良い妻、悪い妻。良い酒、悪い酒。良いデザイン、悪いデザイン。良いタイプフェイス、悪いタイプフェイス。
 なんとなく僕には僕の良い悪いの判断があるのですが、こんなに良い夫だと思っている僕を最も近くにいるのに妻は悪い夫と言うのですから、一般論となると自信がありません。

【A】篠原榮太
タイプフェイスの善し悪しの判断は、そのタイプフェイスの機能性と、どれだけ持続して使用できるかに左右されるように思います。しかし、それ以前に、ボディタイプ(本文用)、ディスプレイタイプ(見出し用)、ファンシータイプ(装飾のある文字)の三種に分別して考察すべきで、三種を同次元で判断するのは無理のような気がします。
 まず、ボディタイプは、長文に耐えられることが不可欠で、可読性はもとより可視性にも安定した表情を持ち、テキストの内容が自然に読者に導入されるような書体が望ましい。
 日本語は明朝体が標準書体とされてきましたが、近年ゴシック体も本文に使用できる書体が開発されて、本文組の範囲が広がってきました。しかし、極端な言い方ですが、長編の「暗夜行路」をディスプレイタイプ又はファンシータイプで組まれても読みきれるものではありません。小説とか評論を一般の読者が読むとき、よほどの踊った文字で組んでいないかぎり、文字の形は意識しないでしょう。ボディタイプの優秀性は、空気のような、無色、透明であることがむしろ条件で、つまり、無個性で抵抗感のない、自然の流れのように、しかし、超然とした品格のある書体が優れたタイプフェイスといえます。
 ボディタイプをデザインするときの指標は、線率のバランス、エレメントの統一、内接する空間の処理等、コンセプトを定めて設計しますが、その属性データが、文字全体に行きわたっていないもの、混植されているような印象があるものは、長文には適さないし、読者に苦痛をあたえることになり、心地よいタイプフェイスとはいえないでしょう。
 ディスプレイタイプは見出し用として、使用範囲をある程度限定してデザインされたものもあるし、書体のファミリーの中の一要素として制作したものもあります。見出しですから主に短い文章構成ですが、厳密にいうと、活字では、大見出し、中見出し、小見出しがあり、微妙な線率の違いでデザインされていました。現状一般では、書籍の題字、広告のヘッドコピー、小冊子の表題等に使用されるもので、視覚的には直感性に重点がおかれます。書体は、明朝体、ゴシック体、楷書体など多岐にわたってデザインされているのと、また、ロゴタイプとして使用されることもあり、明快な印象が望ましいでしょう。
 書体ファミリーは、同じイメージで、エレメントのアクセントの統一、線幅が太い、細い、長体、平体が段階的に整備されたもので、個のデザイナーが継続して完成させることが多い。ファミリーの効用は、同一画面に同一書体のバリエーションで、見出しと本文が構成できることが利点と、タイポグラフィの展開に整然さと、美的効果をもたらします。
 良質のディスプレイタイプは、明確な描写と強靭なフォルムで、そのタイトルを見て、イメージが広がるほどの魅力を備えたものでしょう。
 タイプフェイスは、三種のそれぞれの役割がありますが、拘束するものではありません。ボディタイプを見出しに使って、行間、字間のコントロールで成功したデザインも多数あり、また、ディスプレイタイプを小論文、巻頭文など比較的短文に使って、新しい表現を持たせた例もあります。つまり、タイポグラファの力量が、タイプフェイスの優劣を決めることにもなります。
 ファンシータイプは、個性の強い書体で、エレメントの構成も自由な発想で、表情豊かなデザインが魅力です。コンピュータの導入で、複雑な線の作図、曲線の多様化、グラデーションの明暗など、容易に再現できるようになり、新鋭のデザイナー達が、伸びやかに制作したものが多く発表され、タイプフェイスの中でいちばん飛躍したものでしょう。
 従来では、日本字は個々に正方形の中でデザインされてきましたが、その法則を越えて、長方形、三角形、円形を仮想ボディとしてデザインされたものがあり、エレメントのイメージだけで全体像に統一感を持たせるといった、ユニークな書体が出現しています。極端にいうと、今やファンシータイプのデザインは仮想ボディ(*)は必要ない状況かも知れません。また、組版になったときの文字の大小が混在していることが、むしろ新鮮な効果と躍動感さえ伝わってくることに不思議な斬新さが見えてくることは、新しいタイポグラフィの登場となるかも知れません。更に、ピックアップして、ロゴタイプとして利用できることも可能でしょう。
 それではファンシータイプデザインは、何をやってもいいのかというと、簡単ではありません。エレメントを過剰なアクセントで飾りたてたり、品性の欠落した造形であったりでは、文字デザイン基本を逸脱することになります。タイプフェイスは、あくまでも文字ですから可読性を全く無視することはできません。ファンシータイプとはいえ、その限界を見つめてデフォルメに挑戦することが、醍醐味といえるのではないでしょうか。

【A】鈴木正広
文字は古来、石や骨に彫り込まれ、毛筆と墨により紙の繊維に彫り込まれました。整版、活字、写植、デジタルなど、複製技術が変わっても、やはり種字はひとつひとつ人の手で彫刻され、デジタルフォントはベジェ曲線によって彫り込まれています。優れた文字作家の仕事の場合、膨大な数の文字を彫り続ける永い作業の中で、作者の品格や感情までも刻み込まれてタイプフェイスの細部が形成されてゆきます。
 私たちは、文字を見るとき、文字作家の教養までも透かし見ています。文字のディテールを感じることで日本の文化までも感じとるのです。日本人は、文字の歴史や日本の文化が反映された文字を心地よいと感じているはずです。近ごろ装飾過多な書体を見受けますが、文字の歴史・文化に調和していなければ良いタイプフェイスとは言えません。また、文字の歴史・文化に調和した良いタイプフェイスとは、日本人に素直に受け入れられ易い書体であると言うことが出来ると思います。
 デザイナー自身がデジタルフォントを扱える環境になった現在、デザイナーや編集者がフォントを選定するわけです。デザイナーや編集者に良いタイプフェイスを見抜く目がなければ、良いタイプフェイスは残らない事になってしまいます。私たちはタイプフェイスをもっと重要なものとして考えたいものです。

【A】神田友美
タイプフェイスは人から人への伝達手段としての記号だと思うので、単に読みづらいフェイスは良くないと思います。気のてらいがなく、シンプルで、世の中の人々に受け入れられるフェイスが良いタイプフェイスではないでしょうか。
 制作するにおいては、感覚と技を修得しないと判断できない、奥の深いものだと改めて思いました。様々なタイプフェイスを作ることで良し悪しを体感していくのが今の私の課題です。

【A】池上貴文「「
私は「良いもの」は時を越えて支持され続けると考えています。
 タイプフェイスも例外ではなく、良いタイプフェイスは長生きをしていると思います。ただ、良し悪しとは関係なく、好きな書体を使ってデザインするときは気持ちの良いものです。

【A】山口岩男
結論としては使う側が使いやすいということですよね。
 タイポグラフィとしての完成度をいかに近づけるかはその人のデザイン資質であるでしょうが、それはその人に使われるであろう、いろいろな要素の中の一つであるタイプフェイスも、いかにとけ込むかということではないかと思います。そしてタイポグラフィとしての作品を色々な人達に振り向かせ、見る人の目にこころよく感じさせることではないでしょうか。それがあり、はじめて自分も仲間の一つであるタイプフェイスを使ってみようとすることだと思います。
 また、一(いち)タイプフェイス自身、時代に迎合することを良しとはしませんが、使う人、見る人達が決めることとはいえ、その時代にあったスタンスも必要かと思います。
 スポーツする人、釣りをする人、泳ぐ人など、これじゃなきゃとは決まってはいませんが、その行動がし易いような服装になると思います。服をいかに着させるか、また着るように「文字」という偉人にデザイナーが謙虚につき合うことだと思います。その結果がタイプフェイスの個性として生きるのではないでしょうか。

【A】山本猛
良いタイプフェイスはコンセプトが明快であり、悪いタイプフェイスはコンセプトが曖昧で、いったいどんなイメージの時に使用していいか分からないものだと思います。単純に言ってしまえば、これのみだと思いますが、フォントとなるとそのコンセプトイメージを全ての文字に統一しなければなりません。ここが自分がやってみて一番辛かった所です。正直私が制作した全ての文字が同じイメージ、同じバランス、同じ美しさを保てているのかというと本当にまだまだの段階です。だから、タイプフェイスの場合はコンセプトと同等の位置で文字の統一化が重要になってくると思いました。
 また、文字数の量もユーザーの立場からみてみると非常に重要だと思います。いままで、かなのみのフォントはたくさん世にでていますが、私はいまいち使用する気になれないのです。単純に面倒くさいのです。いちいちシステムにインストールし、再起動の繰り返し、あまり見栄え的に使えるフォントも少ないのでどれがどれだか分からなくなるし、使えたとしてもカナのみだと使用範囲は非常に狭くなります。結局モリサワ等の自分が良く知ってるフォントを使ってしまいます。
 ということで、私はコンセプトが明快で、全ての文字が統一されていて、文字数がある程度揃っているタイプフェイスが良いタイプフェイスだと思います。

【A】土屋淳
タイプフェイスの良し悪しはメッセージやイメージを伝えるのに相応しいかどうか? が一番重要なことだと考えます。可読性の問題がクリアされていればあとは自分の好みで選択すれば良いと思います。
 ただ自分の感じる「美しいタイプフェイス」はまず、組んでも、単独でもバランスが良いもの、そして「書」の概念が生かされているものです(例えば、入り、止め、はね、はらい等)。
 しかし文字は筆やペンという手書きメディアから活字、写植、PC用FONTへと変化してきました。今後はどの様に文字を扱うメディアが変化してゆくか分かりませんが、書の概念を生かしつつその時代やメディアに適したタイプフェイスを作ることが出来たら良いなと思っています。

【A】高田雄吉
タイプフェイスには機能的側面と造形的側面があると思います。機能的側面とは最低限「読める」ということで、万人に共通でほぼ定量化できるものです。造形的側面とは美しいかどうかということで、評価に個人差があり定量化できない性質のものですが、自然の造形の中にもある黄金比や等量比などのリズムを持った造形は、ほぼ万人に心地よいものと思えます。
 ところで、機能的側面で、読めないタイプフェイスがありうるかというと、言葉を伝達するという役割を考えるとまずありえないのですが、例外的に、敢えて伝達したくない目的のために使うタイプフェイスもあるのかも知れません。たとえばダミー文字とか、読めない方がいい暗号のような文字です。
 造形的側面では、美しくないタイプフェイスが良くないかというと、前述したように美の基準というものは個人個人で差があり、また時代によっても違うものです。全ての人に対して、全ての時代において美しいものは確かにあります。それらはタイプフェイスそのものとして良いタイプフェイスと言えますが、それ以外のものは、個人差と時代差、地域差があるのでしょう。また、美しくないと思われるものでも、使い方によって生きてくる場合があります。グラフィックデザインによって、使われたデザインが使用目的に的確であれば、タイプフェイス単体では美しくなくとも、そのデザインに限っては良いタイプフェイスとなりうるのではないでしょうか。

【A】桑原孝之
正直言って、私は文字を描くのが嫌いだ。自分の描いた文字が好きになれない。文章を書く方が、まだ好きかも知れない。でも、昔取った杵柄か、文字に触れると、自然に体(手)が動き「仕事」が始まる。それでいて、なぜ、こんなにも「文字を描くのが嫌いだ」と感じてしまうのか…。
 今から25年ほど前、私は「書き文字屋」の修行に入った。というと大げさだが、要するにレタリング専門のデザインスタジオに就職した。あまり詳しく書くと怒られそうだが、当FONT1000のメンバーである加藤辰二氏は、私の師匠である。彼の元で9年間文字を勉強させてもらった。理論ではなく体で。最初の3年は、仕事で文字など描かせてもらえない。先輩達の硯や筆洗を洗ったり、原稿を取りに行ったり届けたり。ファックスさえない時代、専属のデリバリースタッフ(格好よく言えば)が必要な時代の話。
 コピーが青かった。大きな紙焼きのカメラ、ツールも硯、墨、さし、ガラス棒、面相筆、ホワイト、雲形、コンパス等々。それでも、ロットリングがあったので、カラス口を研ぐことはあまりしなかった。修行は、使い走りのあいている時間に師匠のお手本(3cm画に描かれた明朝体)を左に置き、それを面相筆一本で写し取っていく、フリーハンドで。修正はなし。修行にホワイトは無用、ホワイトは癖になる。
 1年もすると、筆の抑え(コントロール)が効いてくる(今でも筆を使っていて、はみ出す気がしない)。3年ぐらいで、ようやく、明朝体の骨格が頭に入る。というより、体が覚えてしまう。そうなると、練習したことのない漢字でもバランスが取れるようになる(3年では、まだ、甘いのだが)。明朝が描けるようになると、ゴシックも他の書体も描ける。ほんの少し目覚めるだけで…、不思議な体験だった。
 仕事は主に女性週刊誌の記事タイトル(いわゆるゴシップネタ)を、これでもかというぐらいに太い明朝やゴシックで描く。「腕が落ちる」と、師匠は敬遠する部分もあったようだが、私には面白かった。
 しかし、書き文字屋のいい時代はすでに過ぎようとしていた。私が修行を始める前から写植書体は増えつつあったのだ。タイポス、ナール、スーボ、スーシャ、そして、ゴナU(*)。あれでやられた。なにより太く描けるのが、ある面「書き文字」の価値だったが、遅い、高いでは太刀打ちしようがない。また、技術の進歩も「字を手で書いてるの?」とあきれさせるものがあった。
 「良いタイプフェイス、悪いタイプフェイス」について。
ナント重い…。考えたくない、即、投げ出したいテーマだ。
 本文用フォント、あるいはタイプフェイスで個人的好みを言えば、明朝体はあまり好きになれない。何かうるさい、押しつけがましさを感じる。私自身の体質が技術系に偏りすぎているのかも知れないが、細めのゴシックで、英文のように組まれたテキストが好きだ。可読性が高いし、読んでいて疲れが少ない。
 …普段、技術系のテキストばかり読んでるからだろ! …図星である。が、最近はどのテキストも日本語が下手だ。というより、英語のような、明確な論理性を持たない日本語ゆえか(あるいはMacで安易に編集しているからか)、見た目に比べ、ものごとが整然と述べられていないような気がする。
 整然と並ぶフォントは、日本の言葉を表すには無理があるのか?
 論理的なことを整然と述べるには、日本語が向かないのか?
 日本語フォントが「細めのゴシックで、英文のように組まれたテキスト」ばかりになったら、ひょっとすると、日本語は日本語ではなくなるかも知れない。フォントとは、タイプフェイスとは、それほど、深く言葉と文化に根ざして存在するものに違いない。
 自分では書かないが「書」が好きだ。フリースタイルというジャンルがあるのかどうかは知らないが、書家が奔放に書いた「書」を見ると、ほっとする。森林浴をしているように緊張感が溶け、呼吸が落ち着く。何かとても原初的なものに、いや、それにまつわる精神性に深い愛着があることを感じる。そして、「こんな雰囲気のタイプフェイスが創れたらなぁ」と、できもしないことを思う。

【A】和田庸伸
僕としては良いものも悪いものもないんじゃないかというのが回答です。というのも、僕が考えたタイプフェイスはタイポグラフィになってこそ生きたり死んだりするものだと思ったからです。いくら美しいタイプフェイスデザインであってもそれを最終的にデザインされたものがよくなければよくなくなってしまうと思うし、タイプフェイス自体がなにか完成度やデザイン的にすぐれてなくともそのタイプフェイスを何倍にも生かすデザインならそれはそれでいいと思うからです。

【A】伊勢谷浩
私がこの業界に入った頃は、写植時代の真只中で各写植機メーカー主催のタイプフェイスコンテストが盛り上がってきたころでした。その頃の良いタイプフェイスと言われていたのは、可読性が重要視されたデザインで、読みづらい書体は良くないような風潮にあったように思います。文字のバランスや字並び、黒味の均一化(墨溜り防止に切れ込みを入れたり、潰れ防止にアクセントを付けたり)などの濃度調整が行なわれていて、読みやすさが第一前提だったように思います。その上で、オリジナリティや独創性に優れている物が良いタイプフェイスとされていた。事実、私もその頃はそう感じていたし、読みにくい書体は良くないと思っていたが、今は、自分の中で変ってきている。
 最近は、オリジナリティが優先されて、可読性については後回しにされているように思う。一字一字は、多少読みづらくても前後の雰囲気で読ませてしまうような書体がね。だからと言って、そんな書体が悪いタイプフェイスとは思えないし、世間に受け入れられる書体が良いタイプフェイスとも思わない。要するに、制作者の価値観の問題だと思う。タイプフェイスに限らず、どのような作品にも、作者の考え方や思い、想像力が伺えるように、一文字一文字の「はね」や「はらい」などの各エレメント処理に、頷いたり感心させられたりする。従って良いタイプフェイス、悪いタイプフェイスの批評も提議も私にはできないけれども、好きな書体や嫌いな書体は沢山ある。

【A】吉田佳広
結論から言えば、私が使いたと思う書体が、良いタイプフェイス。使いたくないものは悪いタイプフェイスということになります。乱暴なハナシですが…。
 ボディタイプで言いますと、有機的なもの。つまり、自然の木々や生物の動き、寸や尺が人間の身体の一部からとられてモジュールになったように読む側も使う側も自然に抱かれたような安心感のあるもの…、です。かなり保守的ですが、金属活字の圧のある印刷面が好きで、そのような風合いのあるタイプフェイスを使いたいし、求めてもいます。
 ディスプレイタイプは別です。組む文章に合わせて選びますので、種類は豊富な方が有難い。でも、使う基準みたいなものはあります。
 どのようなスタイルであっても、造形的にしっくりこないものは使いません。造形面では、1字ずつの作られ方も気にしますが、やはり「組み」の効果を重視しています。「組み」とは言っても並びがきれいだとか、ラインが出ているということだけではなく、字並びが跳びはねていてもコンセプトがしっかりしており、造形力が確かめられればそれで良いのです。
 最終的には、使いやすく愛されるものが残っていくわけで、私たちが決めるものではないような気がしています。

【A】七種泰史
タイプフェイスのいい、悪い、の判断は個々、個人の感覚が違うので一概に言えないようですね。だが、10人中、10人が嫌だなあ、気持ち悪い、と言われるようなものは創りたくないですね。そのためには、個々個人の感覚を磨くことでしょうね。コンペに出したりして自分の文字を確認することも大切な事だと思います。

【A】西田一成
素材を提供する生産者を「料理人」と呼ぶだろうか。お米を育てる人達、畑を耕す人達、家畜を養う人達、魚を捕る人達です。これらを職業としている人を、料理人とは呼ばないような気がする。こう考えると、「視覚伝達表現」の素材である写真、絵画、図表、書体を制作している人達は、フォトグラファとかイラストレーターと呼ばれても、やはりデザイナーとは言わないと思う(兼業している人もいるけど…)。「タイプフェイス」を「お米」のような素材と考えると、制作者を「タイポグラファ」とは呼ばないと思う。やはり「タイポグラファ」=「料理人」と見るべきか。
 生産者である書体制作者が「出来の良い書体」を作るのは当然だが、タイポグラファの手によって、上手くも不味くもなるのも事実だ。「出来の悪いタイポグラフィ」のせいで「出来の悪い書体」と思われるのは迷惑な話だ。タイポグラファの腕次第である。それだけに書体制作者は、タイポグラフィにもっと関心を持つ必要がある。
 私はグラフィックデザイナーの経験から、時々書体の選択に苦労する時がある。それならいっそ自分で作って見ようと思う事がある。今回の書体が2度目の挑戦である。「タイプフェイス」は本文用、見出し用と使い道があるが、制作者はそれなりの方向性は示す必要がある。タイプフェイスデザイナーは、どのように料理して欲しいか見本を見せるべきだろう。デザイナーの好みで利用されたとしても、最終的に視覚伝達の役割を効果良く果たした「素晴らしいタイポグラフィ」が「価値のある書体」を後押しするからだ。そして思い掛けない、新しいお料理も誕生する。「素材の価値観」が認められた事になる。「使ってみたいと思わせる書体」「美味しいと唸らせる書体」が「良い書体」と考えるのだが…。

【A】加藤辰二
タイプフェイスの、よい、悪いはそれを使う人、見る人が決めることであって、作る者の言うことではない。
 しかし、タイプフェイスを作るに当たっては、最低限具備していなければならない資質というものがある。
1、文字が間違っていないこと。誤読されやすい表現をしない。
2、透明感を持っていること。その字らしさの追求。
3、同一形態エレメントの整合性など文字の品質の統一。

【A】成澤正信
良い書体、悪い書体なんてありません。好き、嫌いがあるだけです。
 但し、既成書体を無断で加工し、作られた書体は悪い書体です。形ではなくデザイン作法の問題です。 美しい、醜い。おおらか、小さい。というような形容も色々ありますが、感覚、美意識も人により違います。「この書体は誰が見ても美しい」とはいえないのですね。でも何となくの方向はあるので、デザイナーはその公約数を巧みに操り、人に訴える形を作り出していくんですね。

【A】小川航司
基本的に文字だけでなく何でもそうなんですが存在感があるものが私の価値観の場合良いとされます。また好き嫌いで判断する場合もあります。(勉強不足も含めて…)
 良いタイプフェイス:やはりなんといっても存在感です。一文字でも組んでみても風格のあるものが良いものです。適材適所に対応できるものも良いかと思います。
 悪いタイプフェイス:現存する文字の影響を受けることは大変良いと思いますが存在感そのものを真似する(いわゆる盗作はもってのほかです)そういう文字はいただけません。文字そのものには害はないのですが…。