【Q】七種泰史
今、日本の法律では、タイプフェイスの著作権が認められてないということですね。だからといって、何をやってもOKということではないですよね。
 自分がタイプフェイスを制作して、タイプフェイスの著作(権)についてどのような意識を持たれますか。

【A】棚瀬伸司
著作したものには著作権があるべきだと思います。

【A】味岡伸太郎
タイプフェイスの創作権について私の経験を通した話題をいくつか…。
■書体のネーミングについて
「小町」「良寛」のネーミングに対して、先輩デザイナーから「名筆は過去あるいは歴史上に名を残した人ばかりである。それぞれの世界で信奉する人もあろう。実名を冠するのに、実在する人に対する礼と同じ配慮があればと思うが如何なものであろうか」と指摘されたこたがありました。このことはタイプフェイスの創作権に関わる重要な問題を含んでいると思われます。
 私は書体の系譜をはっきりしておきたいと思います。決して過去の名作の名を独占するつもりで命名してはいません。
 過去日本の書体開発の歴史は前作、時には他社・他人の作を敷き写し、修正して自社・自作のものとして発表してきました。私はその方法のことはあえて問題にはしません。活字はもちろん、字体も書体も前の時代から受け継いできたものである以上100%の創作はありません。しかし、先人からの遺産、そしてそれに付け加えられた新しい価値、その二つは明確にしておかなければなりません。
 そしてなによりも書体の系譜をはっきりさせておくことはタイプフェイスの創作権やその保護に重要な役目を果たすと考えます。
 私は「良寛」の書の持つ素晴らしい一面をタイプフェイスに生かすことを考え、「良寛」の骨格を借りてタイプフェイス化しました。あきらかにその骨格は「良寛」を参考にしています。そして通常のタイプフェイスデザインと同様に輪郭とエレメントを確定し、墨入れし、修正して、デザインしました。そのことを忘れ、自らのオリジナルを装って、ネーミングすることはできません。それこそ「良寛」に対して不遜な行いではないでしょうか。書の世界では臨書が作品として発表されることがありますが、それは必ず元本の書の臨書であることが明示されています。
 また、著作権の観点から考えれば私の作った良寛のタイプフェイスは良寛の書の二次的著作物と考えることができます。二次的著作物とは原著作者の許諾によって制作が可能となり権利が認められます。良寛の著作権はすでに消滅していますが原著作者の良寛に対する敬意としてその名は明示されるべきです。
 私はその「良寛」の骨格を使いそれから派生するファミリーを私なりに敬意をはらってデザインしたつもりです。
 書は形をなぞっただけでは死んでしまいます。形だけでは価値はありません。良寛をたんに臨書しただけではそこに命を通わすことはできません。同様にタイプフェイスとして良寛の骨格を安易に使うだけではデザインの意味はなく、新しい価値を創作しなければなりません。そこにタイプフェイスデザインの意義があると同時に「良寛」に対する敬意だと考えています。
■タイプフェイスは全てリデザイン
平安期の古筆のタイプフェイス化も、忘れ去られ捨てられた活字の複刻も基本的には同じです。手書きの文字からタイプフェイス、そして活字からさらに新しいタイプフェイスへと、その書体のもつエッセンスを時代のメディアに対応させ伝統を現代に生かすことはデザイナーの大きな責任です。私は弘道軒の清朝体を明朝体用にデザインしました。それをさらにすすめてゴシック体にも発展させています。古い活字のエレメントを変えてリデザインすることと、草書の仮名をタイプフェイス化するためにエレメントをリデザインすることとに違いはありません。
 そこで問題となるのはエレメントのリデザインのみで書体のオリジナル性を主張できるのかという問題です。日本タイポグラフィ協会のタイプフェイスに関する倫理網領では「その権利者の許諾なしに、そのタイプフェイスの複製原型の模造、もしくは変造することを職業倫理に反する行為と考える」とあります。また、変造とは「いかなる技術的手段、材料にかかわらず、原作のタイプフェイスデザインに、若干変更を加えた複製原型を製作することをいう」とあります。若干の判断によって意見が分かれますが、デザイナーの立場からは、そこに明らかな価値が加えられたものであるときには変造とは考えなくてもよいと思います。
 タイプフェイスデザインで100%の創作はありえません。字体は長い歴史の中で共通認識できる形の範囲を超えることはできません。どこまで独創的な骨格を提案したところで可読性の範囲を超えることはできません。我々の持つ形そのものが先人達からの影響そのものです。その意味に限ればタイプフェイスデザインとは全てリデザインです。美しさを求めて、歴史の永い時間をかけ、現代の字体が定着しています。我々は我々に伝えられた伝統を誤りなく次の世代に手渡さなくてはならない義務と責任があります。しかし、そのことは古いものをそのまま手渡すことではありません。先人達が成し遂げてきた、より美しい字への追及の努力を我々もしなくてはなりません。
 新書体といえどもそれを受け取る側にその字体に対する共通認識の土台があることが前提となります。タイプフェイスデザイナーはその共通認識のビジュアルな具現者としての役を演じているだけです。その意味で新しい字体を創作することは我々の仕事ではありません。
■タイプフェイスの創作権の範囲について 
そのことに関連して、何らかの創作権をタイプフェイスに認める場合に、いたずらに作者の権利を認めるものであってはならない。つまり、そタイプフェイスに続く制作を許さないものであってはならないと考えます。
 我々のデザインするタイプフェイスが先人達からの伝統を離れることができないように我々に続くデザイナーも又、我々の作るタイプフェイスの影響からはのがれられません。我々の作るタイプフェイスを土台に次の世代のタイプフェイスが作られます。タイプフェイスは一人のデザイナーだけで作り上げるものではなく、民族の歴史が作り上げる創作物です。
 あるタイプフェイスの改良の方法をその第一制作者以外のデザイナーが考え出した場合、第一制作者の了解なくして改良できないのであれば、時としてそのタイプフェイスが当然発展すべき道を閉ざしてしまうことになりかねません。つまり、デザイナーの権利を守るために民族の伝統の系譜を断ちきってしまうことになりかねません。
 タイプフェイスに対する何らかの創作権は認められなければなりません。しかし、伝統を正しく後世に伝えることがまず第一に保証されることが必要です。その意味で亜流のタイプフェイスの制作もあまんじて許さなくてはなりません。それもひとつのカテゴリー内のタイプフェイスの創作の範囲と考えるべきです。
 タイプフェイスの創作権とはこのようにとても狭いものであり、又、デリケートなものです。しかし、そのことが他人の創作物をみだりに侵害していいことでは決してありません、そこにはおのずと先人の仕事に対する尊敬の念と謙虚さが要求されることも又当然です。
■著作人格権に関連して
ところで、良寛の「れ」の字は最終画が連続せずに離れ「し」の形にデザインしています。発表当時その間をつないで使われているものが現れました。たったその間をつなぐだけなのに、そのデザイナーの技術的な未熟さを露呈してそれは見苦しく見るにたえないものでした。しかし、そのことはさておき、現在タイプフェイスに著作権は認められていません。しかしそれが著作物であること、そして何らかの保護が必要なことはデザイナーであれば誰もが異論はないでしょう。そこで、著作権が認められたと仮定した時、タイプフェイスに手を加えてしまうこと、つまり、良寛の「れ」を例えのように変えることは許されないことをデザイナーは認識しているでしょうか。既成のタイプフェイスでロゴタイプを制作することは許されているようですが、そのタイプフェイスに手を加えることは著作人格権の侵害なのです。おそらくそんなことは考えたこともないでしょう。もちろん、著作権が認められていない現在、私の言っていることに何の法的な論拠もありません。そして、そこまで権利を認めて良いのか私でも疑問を禁じえないのですが。
 しかし、知的所有権の問題はデザイナーの間では法律論よりまず先に倫理感で語られなくてはなりません。現在の法律にはふれないから著作人格権を侵害しても良いという問題ではありません。さらに厳密に考えてみると既成のタイプフェイスを使用してロゴタイプや制定書体とすることも無条件には許されてはいないようです。
 苦言ついでにもう一言。既成のタイプフェイスを組み合わせ、修正しロゴタイプを制作することについてですが、タイプフェイスはとなり合う文字は決定されてデザインされたものではありません、組合せによっては時に具合の悪い場合もあります。その時、自作のタイプフェイスに手を入れることは私の場合にもあります。しかし、多くの例はそのようなものではありません。既成のタイプフェイスを並べただけでは自己のデザイナーとしての主張の少なさを感じて手を入れたとしか考えられないものです。それならば、ゼロからデザインし直せと言いたい。既成の書体を直すのではなく、自らの能力で初めから形を造り出すべきではないでしょうか。
 マッキントッシュで使うことのできるフォントからアウトラインを自動的に作成するソフトが販売されています。作成したアウトラインを変形させて新しい書体の作成も可能です。又そのように作成した書体を組み版して使う為のソフトも市販されています。日本語のフォントの中にもアウトライン作成のプロテクトをはずしたものが増えています。それらのソフトの使用にも原字制作者の権利への配慮あるいは敬意が忘れられてはならないことは言うまでもありません。
■正当な権利の侵害
タイプフェイスの創作権の第一歩はまず仲間でもある筈のタイポグラファがタイプフェイスの創作権を認めることから始まらなければなりません。又、そのことがタイプフェイスデザインに有能な人材が参加するきっかけを作ることにもなります。それは結果的には良質のタイプフェイスをタイポグラファに提供することになります。
 タイプフェイスの創作権の問題に対して、グラフィックのデザイナーから、そんな無駄な労力を使わずにさらに新しい創作性のあるタイプフェイス作りに力をそそぐべきだとの意見があります。確かに正論です。しかしそれは、デザイナーや業界の認識がタイプフェイスとその権利に対して深められていることが前提となります。現在、法的な保護がない為に正当な権利が侵害され、そしてタイプフェイスデザイナーの物質・精神両面の社会的地位の低さに結果的に現れていることを認めて頂かなくてはなりません。
 私の作る仮名書体に対しても残念ながら、あきらかに創作権を侵害する事例が起きてしまいました。それは、私の書体を無断でコピーし、安価で販売するという悪質なものです。そして安いが為、それを使うデザイナーも又存在するという事実があることを知ってもらいたいと思います。
■健全な競争
「小町」「良寛」をまねた書体が発売されています。私は傾向をまねることに関しては、そのデザイナーやメーカーの見識の低さを残念に思うだけで、そのことを問題にする意志はありません。しかし、成功したタイプフェイスをまねたものが製造され販売されてしまう背景には、ハードとソフトが一体化している日本の業界の事情があります。ソフトであるタイプフェイスは組み版するためのシステムから離れることはできません。結果としてタイプフェイスは常にそのシステムを持つメーカーの独占的なものになってきました。そのため、あるメーカーが新しいタイプフェイスを創作し、それが世の中に広く受け入れられた場合、他のメーカーは対抗上いやでも似たタイプフェイスを制作することを、システムを使っている現場から要求されてしまいます。
 まねた書体は基本的にオリジナルを越えることはありません。結果的に悪質なタイプフェイスが社会に提供されることになります。それを避けるためにもハードとソフトは分離されなければなりません。ハードはハードのみの競争とし、ソフトはソフトのみで競争し、自由にハードとソフトを選択できなければ健全なタイプフェイスの発展は望めないでしょう。質の低下だけでなく、特に字数の多い日本のタイプフェイスではすべてのメーカーが似たような書体を持つことは大変な無駄な労力を使っていると言わざるを得ません。フォント、組み版ソフト、出力機が個別に開発され、それを組合せて使うことが基本的に望ましく、最近のDTPの発展と急速な普及は望ましい状況を日本に生み出しつつあるように思えます。しかし、そのことと反比例して悪質なコピーの横行は止む気配が見えません。

【A】成澤正信
答えにならないのですが…いま、書体デザイナーはとても不遇です。じっくり時間をかけ納得いく書体作りに専念していられるのでしょうか。収入が見合わず、フリーで書体制作をし続けるのは大変なことです。その原因の一つにユーザーの書体データの違法コピーがあります。パソコンの中に正規に購入しなかった書体はありませんか?
 デザイン上の著作保護もとても大切ですが、違法コピーをなくす働きかけも重要です。

【A】篠原榮太
タイプフェイスデザインの著作権について、その利害関係が複雑混迷で難しい状況が続いています。大げさに聞こえるかも知れませんが、日本の資本主義100年の重みがのしかかっていると思わざるを得ません。そして、タイプフェイスデザインを著作物と認めない国は法治国家といえるだろうか! …強い言い方かも知れません! …少し遠慮するとして…これからも創作者と法律の攻めあいを持続させていくべきでしょう。タイプフェイスデザインの著作権について、ここで多くを述べることは、少し時間と場所が必要ですので、別の機会にあずけることにして、ひとつだけ、創作について話をしたいと思います。
 タイプフェイスデザインに対して、似ていて何が悪いのかという発言がしばしば聞かれますが、似ていることと、真似という行為とは大きな違いがあります。
 書を習う方法として、臨書という行為がありますが、優れた書作品を側に置いて、その芸風、精神性、作者の魂を汲みとり、観察しながら書いた書は作品です。つまり、創作物と思います。もうひとつ書を習う方法として、双鉤填墨ですが、それは優れた書作品を下敷にして、上に紙をのせて、そっくりなぞっていく習字ですが、これはトレース行為で作品ではありません。つまり、真似と似ていることとは大きな違いがあると思います。
 アリストテレスは、芸術は自然を模倣したことからはじまると記しています。法律は、この根源的なことを脳裏に強くとどめてほしいものです。

【A】土屋淳
タイプフェイスの著作権は支持します。自分の首を絞めることになるかもしれませんが…。法的な保護が難しいとしても、使い手側へのモラルの啓蒙は可能かもしれません。FONT1000をとおして内情実情を理解し、一緒に考えてもらえればと思います。それが法的なことより先なのかもしれません。

【A】神田友美
この質問に答えられる程きちんと理解していません。すみません。勉強不足です。
 文字を作る人、使う人みんなが理解して初めて成り立つルールだと思います。日常生活でルールやマナーを守るのと同じように周囲に迷惑をかけずに制作したいと思います。

【A】長谷川眞策
「違法コピーでタダだから使う」…これは書体の良さを感じて使うわけではないので悲しいですね。「高いから買えない」…いいなと思っても買えない金額では、これも悲しいです。「タイプフェイスは使われてこそ文化」…誰かが主張しておられました。これは同感です。書体の良さを感じる方には安く提供したいですね。微々たるロイヤリティーでも確実に著作者に還元され、死後50年の著作保護期間が守られるのが基本です。

【A】奥村昭夫
日頃デザインの仕事を売り渡し契約でしているので、タイプフェイスの著作権についてあまり考えたことがない。

【A】池上貴文
私は仕事というのは自分を切り売りしているようなものだと思っていました。「著作権」なんてすばらしい言葉でしょう。

【A】七種泰史
日本の法律の中にタイプフェイスの著作権が認められていないということは、とてもさびしいですね。タイプフェイスデザイナーが何年もかけて創作した書体に権利がないから、不正してもいいってことではないですよね。許されませんね。権利がなくてもモラルの問題です。人が創ったものを無断で使い、商売をする人たちがいるって事は許しがたいですね。 私も以前ロゴタイプでありました。カタカナ7文字のロゴを制作した時の事です。同じクライアントからの次の依頼でしたが諸事情があってお断りしました。すると私のカタカナの文字4文字をそのまま使い2文字継ぎ足してロゴとして使われていました。その時にはさすがにびっくりしました。直接責任者に会い、話を聞いてみると、私のつくったモノを渡し、こんな感じでとお願いした様です。クライアントのトップを騙す手段として私がつくったロゴに似せるためだったんでしょうが許されませんね。そのままトレースして文字を追加して、お金をいただいているなんて、プロのデザイン会社がやることではないですよね。でもそう言う人たちがいるのは現実です。
 タイプフェイスはいま権利が認められていませんが、モラルに反することはもっと声を大にして主張すべきだと思います。そうしないとタイプフェイスデザイナーも食えなくなる一方です。

【A】鈴木正広
著作権は制作された時点で発生する権利ですから、タイプフェイスにも創作性が有る無いに関わらず著作権が発生するはずです。ところが、著作物として法律で明文しようとすると、表現が難しくて、文字の迷宮に陥ってしまうような気がします。文字の評価をさらに明確にするために、かなり細かい書体の分析が必要だと思います。

【A】神谷利男
キーボードで打てるというタイプフェイスを作成したのは今回がはじめてのことですのでこのようなタイプフェイスの著作権についての意義というと作成するための労力がべらぼうに大きいのでやっぱり必要に思う。でないとアジアのCD海賊版的なことになってしまいそうで怖い。
 欧文のフォントでは既存の書体をちょろっと変えただけでオリジナルということを聞いたことがあってほんまかいなと思いましたが、そのアレンジに対する考え方というものを大切にしているのではないかと今は思えます(つまりコンセプトがあるというのですか)。

【A】西田一成
真似のしにくい書体を作るしかないのかなー。その為にはその書体の創作ポリシーと、確実なルール作りが必要だと思う。どんな視覚表現に使って欲しいか。字面の大きさ、重心の位置、線率、エレメント等のルールです。創作理論がしっかりしていれば、盗作されないと信じたい。ただ、同時期に違う場所で同じような書体を開発する事だってありうるだろうから、お互い話し合って発売すればいいと思う。競争です。

資料タイプフェイスに関する倫理綱領参照