【Q】和田康伸
実は前回僕らは二人でフォントを制作したわけなのですが、今年は僕が4年生ということもあり一人で新しいフォントをまた1,000文字制作しています。そこでうちの大学の先生にみせたところ先生から「君はタイポグラフィに興味があるようだがこれからのタイポグラフィについてどうかんがえてたりするの?」といわれました。僕としては全然そこまでは考えておらずただ本屋にいったりCDを買いに行ったりした時にそのタイトルや文字のキャラクターや文字の配置からできる間とか空間、表情そういったものに単純に惹かれることがあり、そういうとこからこのフォント制作に参加していたので、あまり深い考えはないような気がしてました。そういったところからこのFONT1000に参加しているみなさんはどういう風に考えてるのだろうと思いこの質問をします。
タイポグラフィ(タイプフェイスデザイン)についてどう考えてたりするのでしょうか?

【A】味岡伸太郎
回答の前に確認しておきたいことがあります。それは、タイポグラフィとタイプフェイスデザインとは違うということです。タイプフェイスデザインとは、タイポグラフィのエレメントではありますが、タイポグラフィではありません。タイポグラフィとはタイプフェイスをいかに使い、ビジュアル・コミュニケーションを図るかということです。日本タイポグラフィ年鑑では毎年、タイポグラフィ作品を募集していますが、確かにそのカテゴリーの中にタイプフェイスは含まれていますが、正確に言えばタイポグラフィではありません。他の募集カテゴリーについても、ロゴタイプ・シンボルマークもやはりエレメントです。(厳密に言えば、文字を素材に使うデザインがタイポグラフィではありませんが、仮にそのように考えてみても文字を使わないシンボルマークがタイポグラフィに含まれるとは到底思えません)そして、ピクトグラムは絵文字という解釈もあるのですが、これはむしろイラストレーションの分野に入ると思われます。日本タイポグラフィ協会ではタイポグラフィの普及の為にタイポグラフィを拡大解釈してきましたが、そのことがタイポグラフィを少し見えにくくしてしまったように思います。
 和田さんの質問や先生の用語にもその傾向が見られるようですのであえて書かせて頂きました。
 さて、質問の「タイプフェイスデザインについてどう考えるか」ですが、あまりに漠然としており、どう答えるべきか判断に迷いましたが、勝手に範囲を「私とタイプフェイスデザインとの関わり」に限定させて頂き、回答することにしました。
 まず、私がタイプフェイスデザインを始めたきっかけですが、今から20年程前に包装紙のデザインの為に若山牧水の短歌を組み版する必要がありました。その時、それにふさわしい書体がなかったが為に、それならばと自分でデザインしたのが、小町であり良寛です。
 そして、その時考えたのが、一つの漢字に複数の仮名を組み合わせて使うという考え方でした。日本のタイプフェイスデザインはそれまで、欧文アルファベットの考え方でタイプフェイスとそのファミリーのデザインをしてきました。しかしわずかな文字数の欧文アルファベットと比較して、漢字・仮名・アルファベット・数字・約物を含めて約7,000字をデザインしなければならない日本語のタイプフェイスでは、日本語独自のタイプフェイスデザインの方法がなければならないのです。勿論、このことに限れば単に労力だけの問題ですので、本当にそれが必要ならばそれは克服しなければならない問題です。漢字、仮名、アルファベット・数字の3種はその構成するエレメントの違いは歴然としています。それぞれのエレメントに合わせてデザインされ、それを組み合わせるべきだと考えています。
 例えば、漢字の明朝体と欧文アルファベットのローマン体とではあきらかにエレメントが違うのにアルファベットのエレメントを明朝体風に直そうとはしません。しかし、漢字と仮名はエレメントの調和を考えてしまう、本当に日本人というのは不思議な考え方をする人種だと思います。
 欧米のタイプフェイスデザインではアルファベットと数字のデザインだけです。それに対して日本では漢字6,000字以上に仮名とアルファベットをデザインしなければなりません。漢字の付録的にデザインされたアルファベットと文化的・歴史的背景を持つ欧米人がデザインしたものと勝負ができる訳がありません。それとは少し意味が違いますが、漢字と仮名はデザイナーの資質が少し違うと考えています。昔の活字時代のデザインでも仮名に関しては特別にデザイナーが指定されたようです。
 結論として私が言いたい事は次の二つです。
 一つは、タイプフェイスにはそのタイポグラフィを決定する力がある。つまり、良いタイポグラフィの前提として良いタイプフェイスが必要であるということ。
 二つ目は、タイプフェイスデザインにはその国の言語の構造に対して、単なる視覚上の形の問題を越えた深い理解が必要であること。そして、その結果として、タイプフェイスの形に反映されなければならないこと。
 最後に、タイポグラフィ及びタイプフェイスデザインが美しくないものであってもそれによって書かれた内容までも、凌駕するものではなく、すこぶる限定的なものであることを知らなくてはならないと思います。つまり、タイポグラファ及びタイプフェイスデザイナーは日本の文化・歴史に対して常に謙虚でありたいものです。

【A】篠原榮太
質問というより、この人の思いの深さがあり、タイポグラフィへの根本的な事に触れているように思うので、簡単に答えられないが、僕が多摩美術大学グラフィックデザイン科のタイポグラフィ(3年、4年、卒業制作)を担当していた時に、学生達に伝えたことを要約して記します。
 タイポグラフィとは? 少し乱暴な言い方だが、ひと言でいうと文字の構成技術とでもいえるか…。タイポグラフィも無限のクリエイティブなので、定義は存在しないと考えている。概念としてとらえ、文字と文字に関わる未知数に取り組む行為と思っている。更にいえば、タイポグラフィは明快なコミュニケーションの構築で、そのタイポグラフィを展開させるためには、各々が、文字についての世界観を拡大することではないだろうか。
 文字造形は、コミュニケーションという人間の自然な行為を原点とし、人類学に匹敵する壮大な、極めて根源的な学問とみるべきだろう。
 現在、世界中で使われている文字の分布は、アルファベット圏、サンスクリット圏、漢字圏に大別できる。文字は人類の大いなる遺産と同時に、それぞれの民族のかけがえのない歴史でもあり、現代生活に欠かすことのできないコミュニケーションの基盤である。
 日常われわれが使用している日本語は、漢字、ひらがな、カタカナ(記号類を含む)の3種だが、アルファベットの日常性を考えると、欧文も加えて4種の異なった字形の文字を使用している。この事がタイポグラフィに様々な影響を与えている。したがって、タイポグラフィを考える時、文字とその周辺の観察を反復する事からはじめる。反復運動によって洞察力を養い、優れた感受性が備わっていくると思う。
 グーテンベルクが活版印刷を発明したのが1440年頃といわれ、キリスト教の布教に伴って、印刷機や活字が日本にも輸入され、いわゆる吉利支丹版が多数印刷されるようになった。日本のタイポグラフィ前史ともいえる黎明期である。なお、江戸の中期、熊本の僧、鉄眼禅師が一切経の復刻に生涯をかけた情熱に思いを深め、その版木が5万枚も宇治万福寺宝蔵院に保存されていることにも、大いに痛快さを感じるのである。これに彫られている文字が、俗説であるが、明朝体の源流といわれている。
 更に、1869年上海の美華書館にいた、アメリカの宣教師ウィリアム・ガンブルが帰国の途中、長崎に立寄って金属活字の製造を伝授したことも、日本にとって幸運な歴史の一頁といえる。この活字が築地活版製造所に引継がれ、いわゆる築地体の基礎をなすもので、明朝体の精度を高めることになる。
 様々な文字の史実に出逢うことによって、文字に対するエモーショナルな先人達の夢を垣間みることができ、文字への興味、文字の情感、芸術への思索が増幅されるのではないだろうか、つまりタイポグラフィの視点をグローバルに定めるべきだと思う。
 日本の近代化は、明治維新の文化全般にわたる急速な変革で、特に文字情報のメディアである新聞、雑誌などの増大は、金属活字の増産に拍車をかけ、活字デザインの必要性を高めた時代といえるだろう。大量生産を進める中で、活字制作の優れた職能者の感性を受け継いで、精度を高めた事によって、活字印刷の全盛期をむかえることになる。しかし、現代では、その機動力の不足から、次第に使用範囲が狭まり衰退の一途をたどっている。しかし、タイポグラフィの創造の発祥は活字であり、活版の感性とダイナミズムは、印刷の美学として忘れてはならないものである。
 金属活字を第一世代とすると、第二世代は写真植字で、写真技術を利用した平面制作のタイプフェイスデザイナーが登場することになる。活字時代は、限られた少数の制作者であったが、従来の活字書体からの脱皮を目指して、グラフィックデザイナーが取り組むようになり、1960年頃から、いわゆる新書体ブームが起こり、更に、書体メーカーがコンペティションを行うようになって、新書体が多く発表されてきた。新書体の出現で、グラフィックデザインに新鮮なイメージをもたらした。しかし、安易なタイプフェイス制作で、質の低下も見られ、また、欧文書体のエレメントの部分的な模倣で、文字の本質を見失ったものもあり、タイポグラフィに関わる者にとって反省しなければならない時期もあったように思う。
 タイプフェイスデザインは、実際に印刷される画面を想定して、可読性、線率のバランス、オリジナル性などコンセプトを十分たてることから始める。文字は文章として配列されることがほとんどで、1字だけの個性を表現するものではなく、配列での効果、個々の大小の視覚的コントロール、画面全体での安定感などをみながら指標をたてるもので、これをタイプフェイスの属性データと呼んでいる。
 今やコンピュータ時代をむかえ、デジタルタイプは第三世代となる。
 タイポグラフィは、ヨーロッパのバウハウスの論理性から洗礼を受け、この鮮烈な精華を潔癖なまでの構成体系として持続してきた経緯がある。タイポグラフィの思想は、さまざまな時代を通過してきたが、技術的な限界が見えるごとに、新しいテクノロジーを生み、デザイナーにとっても、メディアビジネスにとっても、画期的な成果をもたらしてきた。
 コンピュータの出現は、タイポグラフィの世界もハイクオリティとスピードの時代をむかえ、その操作力も、出力機能も、高度な開発によって進行し、複雑な表現が加速的に可能になってきた。タイプフェイス制作も、活字、写植は線の構成であったが、デジタルタイプでは数値化され、光、電気信号、磁気などによって、点の集合体として再現されているので、アナログ時代と違う物理的条件を解決したといえる。
 新しいテクノロジーが、今日のタイポグラフィにもたらす強い影響力を見逃すことはできない。タイポグラファもそれによって、多様な想像力を働かすことができるようになった。コンピュータが多岐にわたって成果をあげていることを否定するわけにはいかないが、しかし、コンピュータは、多くを解決してきたが、万能ではない。
 活字から写植への移行期も、そしてコンピュータへの移行も、テクノロジービジネス優先で、タイポグラフィの芸術的感性を置き去りにしてきたのでは、との疑問もある。コンピュータによる効率化と経済性に重点がおかれ、タイポグラフィの持つ、温かいコミュニケーションの側面を見失ってはならないと思う。タイプフェイスは、あくまでもタイポグラフィのエレメントで、活字、写植、デジタルへと移行したからといって、タイポグラフィの本質は変わるものではない。コンピュータは人間が操作することによってはじめてその成果をあげることができるもので、タイポグラフィへの強い探究心と、問題意識を持つことによって、その美意識が生まれるし、情熱と感性によるところがすべてである。
 われわれの時代に、王羲之の書を超えることができるだろうか…紀貫之のかな書を超えることができるだろうか…ローマン体のガラモンを超えることができるだろうか…サンセリフ体のユニバースを超えることができるだろうか…築地明朝体を超えることができるだろうか…。

【A】成澤正信
以前、名古屋で「文字術講座」というセミナーがありましたね。多分味岡さん、山田さん達が考えたものだと思うのですが、その「文字術」が「タイポグラフィ」の今の日本語訳にぴったりです。
 文字を扱う技術といえば解りやすいでしょう。目的にあわせて書体を選択し、組んで構成する技です。その中には、目的に合う文字、書体の開発も含まれるでしょう。「これはタイポグラフィや」(突然大阪弁ですが)といわれる仕事は、文字が効果的にうまく生かされているときに発せられる言葉です。